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異世界もの創作で現代倫理観無双ってよくみかけるけど

現代倫理観無双とは、現実世界で生活していたキャラクターが転生・転移などで異世界にわたり、そこに住まう人々を(元の世界の倫理観を基準に)言い負かすことである。(1)

異世界もの (いせかいもの)とは【ピクシブ百科事典

異世界ものにおけるキャラクターは(元いた世界の現代倫理観に従って)異世界にある国の奴隷を解放するよう振舞ったり、男女で扱いの異なる風習を打破しようとしたり(特権を排し)身分ではなく能力で取り立てたりするのであるが、一方で時代背景・文化基盤・世界設定が異なるのだからそこに現代倫理観をもちこむのはナンセンスだと揶揄されることもよくある。(2)

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ここで、異世界に移るキャラクターと読者が同じ(又、似たような)世界にあったことに注目してほしい(そうでなければ、現代倫理観の共有はなされないからである)。そのキャラクターは異世界の住民を言い負かし(1)読者は(創作の欠点としてよく知らぬだろう)作者を言い負かしており(2)どちらも現代倫理観を基準に行われる点で両者はほとんど同じである。

これはいかにも作為的である。作者は自分の創作に現代倫理観無双をあえて取り入れることによって読者・作者のいる現実世界の倫理観の見直しを図ったのではないかと思われる。それというのも、読者がある創作を現代倫理観に従って批評するならば、歴史・文献を参照するなどして(例えば奴隷制の敷かれていた国・時代・文化など)当時の倫理観を明らかにすることで現代倫理観を見直すことになるだろうからだ。反対に批評しない読者はそれが異世界であることをわきまえているのであって、作者にとってはそれはそれで悪くないのである。そうして創作における言い負かしを言い負かしていた読者がじつは作者に負かされていたという逆の見方もできてしまうのだ。そしてそれもまた言い負かしの系列なのである。

以上、考えすぎだったかもしれないが、一々を欠点だとして思い煩うことがなくなればよい。創作とは読者と作者の化かしあいなのだと誰かが言っていた。

 

 

リアリティーショーのトラブルについて思ったこと

脚本に従った演技が批判・批難されるというのはままあるだろう(単純には作品批評にすぎないのだ)。これは一連の行為であり、演技をした人(演者)、批判・批難する人(視聴者あるいはサクラ・にぎやかし等)、脚本に関わった人(それ以外の提供者サイドのすべて)に分割できる。したがって、そこで生じた演者にとっての不利益について(1)視聴者要因と(2)提供者要因として整理できる。(当然、演者には全くの欠点がないとした場合であるが)

(1)視聴者要因…演者間あるいは演者と提供者の関係悪化(不利益)が視聴者に起因する場合である。ここでは視聴者の過度な批判・批難によってその演者を使いにくくなった提供者(演者の仕事が減った・悪変化した)など。

(2)提供者要因…演者間あるいは演者と視聴者の関係悪化(不利益)が提供者に起因する場合である。ここでは提供者の用意(指示・命令・提案)した脚本が演者のイメージを低下させた(視聴者の批判・批難を煽った)など。

そして、この二つの要因は見ての通り相補的(要因)である。(また、演者間の関係悪化というのはおそらく煽動だろう。演者仲間の個人情報暴露など)

 

さて(ここでは善良であるとした)演者に不利益がでないよう(1)視聴者または(2)提供者に制約を与える外野(大抵嫌がるだろうから第三者)による解決がある。また、演者の利益を共有する関係者(身内)が解決することも当然ある。…ここでは(A)外野(B)身内の二解決を列挙するに留める。

 

くどくど考えてきたが、予定した自分の行動が批判されるなんてありがちなことでそれに失敗することもそれで思いつめることもあるし、よくよく、芸能界に限ったことではないのだろう。演者・視聴者・提供者が未分化であり自分でやったことに自分で嫌悪するなんてこともあるのだ。未だ、身の回りでうまく解決されていないことをどうして簡単にできようか。

 

 

 

述べたり記したり、あたりまえを・・・

述べたり記したりするのは(全く常に)「何か」について行われることである。すなはち、そういう記述に対すること(模倣・指示・解釈やら)というのは記述そのものよりもっと広範な、つまり「不明な」何かに対して行われるのである。いわば、記述もそれに対してするのもその関係性も(不明な)それを明らかにするためにあるのだが、そもそも不明な何かに対して(指そうとするものがわからないのだから)何ができるわけでもなし、したがって述べたり記したりするのは既に明らかなこと(すなはち記述)から(拡張して)始められるのである。これは明らかなことが(全く常に)暗(不明)を伴うことを示唆する。明らかなことから始まり、(その照らされざる暗部を)明らかにして終わるというのが(目的の)何かを記述するという行いである。

こうして(本記事にも明らかにある不明な部分)あえて不明を広げる「嘘」という記述について探求し始めることができる。それは嘘か真か。

 

 

マイメロママ「女の敵は、いつだって女なのよ」

サンリオの毒舌キャラが炎上したとのことで、そのきっかけになった名言とされる「女の敵は、いつだって女なのよ」について、少しだけ味わいたい。

ジャンダーギャップの助長が懸念されるとの炎上であるが、これは女性間あるいは男女間対立を煽っていると捉えられたからなのだろうか。あるいは反対に、女性間、男女間の距離が近しくなることが何かしら都合が悪いのか。はたまた、たんにサンリオ(のキャラクター)が嫌いなのか。あるいはそれら全ての複雑なのか。このように炎上となった可能性をあげればキリがないのだが、こういった抜け出しがたい迷路に入らずして評価に値する一言(名言)というのを見ておきたいのだ。

さて、毒舌キャラであるマイメロディーのママというのは女性であろう。その女性が「女の敵は、いつだって女なのよ」と言うのだ。こうしてみれば、女性である自分がそう言うのだから(ママは何かしら女性と敵対したことがあって)その経験済みであることが発言に説得力をもたせているとみることができる。また、自分を敵とし、ママは自分自身に打ち勝とうとしておりいつも今の自分よりも高みを目指しているともみれる。すなはち、マイメロディーのママというのは常にストイックであり、過去に女性と何かしらの因縁を抱えているのである。ここからさらに、ママは女性と敵対などしたことはなく(未経験に言わば)でまかせに発言している(この場合無責任で適当だから自堕落かもしれない)ともとらえられ(そうであるなら)ママはその名言を残した相手に対して(現代的に見れば)軽はずみなのだろうか(あるいは、それこそまさにジェンダーギャップ助長の犠牲とされるような、どこかで見聞きした誰かの言葉に影響されて遊び心や格好付けで真似をしていみた)わりと自由奔放で考えなしに発言するキャラクターなのかもしれない。

マイメロママはアニメ「おねがいマイメロディ」にも登場するのだという。私は未視聴なのだが、以上名言を踏まえながらより楽しく見れそうである。

アマビエとかいう妖怪

姿絵を広めて見せれば疫病は流行しないとは言っていないところが何とも不気味でいかにも妖怪らしい。また、この(予言の穴からくる)不気味さ・不安定さを自分たちに都合良くとらえて(姿絵を広めることが疫病流行の防止になるものとしてその穴を埋め)利用しようとするところがいかにも人間らしい。この対照こそがアマビエ(という人間をより明らめる出来事)の面白さであると思う。

疫病の流行とアマビエの姿絵を広げる(流行させる)ことが対応していることから、アマビエに疫病の代わりをさせようという意味合いがあるのかもしれない。こうしてアマビエを(言い伝えて)利用し、疫病によって起こりうる不安・混乱を少しでも減らそうとしたのだとするのが(統治・治安のためなら)もっともらしい。そうするとアマビエが現れたとされる弘化3年4月中旬(1846年5月上旬)よりあと、その姿絵の広がりと同時期に疫病の流行がなかったか、調べてみて確かめることもできそうであるが…(アマビエ、また、これと同様のことが現代にわたって通用している確認になるだろう)。

人間も利用し、結果的に(アマビエのことも)広く認知されたのだから、予言めいたというよりはよく練られた(アマビエの)謀だったのではないかと思えてくるのだ。…アマビエという知性の妖怪よ

 

…毎夜、海中に光る物体が出没していたため、役人が赴いたところ、それが姿を現した。…その者は、役人に対して「私は海中に住むアマビエと申す者なり」と名乗り、「当年より6ヶ年の間は諸国で豊作が続くが疫病も流行する。私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行った。

アマビエ - Wikipedia

 

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